9 質問回答 - 9 Japanese Orthodox Questions - 日本人

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Α.Γ.
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9 質問回答 - 9 Japanese Orthodox Questions - 日本人

Δημοσίευσηαπό Α.Γ. » Κυρ Αύγ 18, 2019 6:27 pm

Εικόνα

9 質問回答 - 9 Japanese Orthodox Questions - 日本人

日本正教会 Orthodox Church of Japan - 日本人 Japanese Orthodox Web 2

キリストはほんとうに生き返ったんですか

Was Jesus Really Resurrected?


ハリストスの復活は仮死状態から蘇生したのとは違います。三日目によみがえったということは、完全に死んでから、ふたたび生命を得たということです。しかも、お弟子さんたちの隠れている部屋に、閉ざされた扉を通じて入って来れるような不思議な「新しい体」をもってよみがえりました。それでも幽霊ではないということを教えるために、お弟子さんたちの前でお魚をむしゃむしゃ食べたり、十字架に釘づけられた傷を見せて、さわって見なさいと命じたりしました。

ほんとうに不思議なことです。でも、これを信じなければキリスト教ではなくなります。このハリストスの復活を信じてこそ、終末の時の全人類の復活への信仰も、私たち一人一人の洗礼による、また悔い改めによるよみがえりへの信仰も確かなものとされるのです。

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どうやって霊的弱点から逃れるか

Saint Paisios of Mount Athos, Greece (+1994)

Q&A

I tell myself to my every day, “Let’s start praying from tomorrow and am going to change myself.” But everything is as it is

――聖山アトスのパイシイとの対話――


――長老様、私は毎日自分に言い聞かせております、「さあ、明日から祈りを始めて自分を改めよう」。でも何もかもが今までのままです。

――神の前に立ち、こう言うことじゃ。「神のお力によって私は務め改めます」とな。そうしたら神はお助けくださるよ。お前さんが自分を改めたいと思うのは、つまり、助けを得るということと同じじゃ。神に助けを求める――すると神はお前さんに手をさしのべてくださるじゃろう。お前さんは、自分に出来るほんのわずかなことをする、そうやって前に進んで行く。赤ん坊が自分の手で大きな石を動かそうとしているのを見たら、誰でも飛んで行って助けてやるじゃろう、そう思わんかの?神も同じで、お前さんの小さな努力をご覧になれば、勝利する事が出来るよう助けてくださるのじゃよ。

自分を改めようと何の努力もしないで「わがハリストスよ、私の中にこのような欠点があります。あなたはそれを取りのけることがお出来になるでしょう。どうぞ私を逃れさせてください」と言う人間がおるが、神がどうやって助けることが出来るじゃろう?神が助けるには、まず人が努力する必要があるのじゃよ。神が助けてくださるためには、人が自分でしなければならないいくつかの事柄があってな。自分を助けたいと望んでもいない者が、助けを受けることなどありはせんのじゃよ。

わしらは、時には不思議な方法で神の恵みと贈り物とを受けることがある。戦いもしないで何がしかの徳を得ることが出来て、聖人になれるかもしれんなどとさえ思いがちじゃ。しかし、神が何かをお与えになるには、わしらは努力しなければいかん。それなしにどうやって神が何かを与えることが出来るかの?トロパリで歌われているではないか、「不毛の荒野を耕せり」と。神が雨を賜い、土を柔らかくする。けれどもわしらは自分の畑を「耕さなければ」ならんのじゃよ。土地の準備が出来ても、鍬を入れて種をまかなければ何にもならん。種をまいたぶんだけ刈り取ることが出来る。耕さなければどうして種をまくことが出来るかの?もし種をまかなければ、どうして刈り取ることが出来る?それだから、神が何をお出来になるかと尋ねるのではなく、自分が何を出来るのか、それを自分に問わねばならん。ハリストスという名の銀行は、そりゃあ利息が高いのじゃよ。だがこの銀行にわしらが口座を持たなかったら、どうやってそこから金を受け取ることが出来るじゃろう?

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「生まれ変わり」はあるんですか

Is there a “reincarnation”



人間が死んで次の世では犬や猫に生まれ変わるというのは、仏教の輪廻の考え方です。キリスト教にはそういう考え方はありません。死後、人はしばらく眠りにつきます(永眠)が、やがて、ハリストスがこの世に再びやってくるとき、新しい体を与えられて復活し、生前の生き方に応じて裁かれます。

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正教会: 開祖は誰ですか – いつ頃から始まったのですか – どこで始まったのですか

Questions about Eastern Orthodox Church


もしキリスト教が、誰かが「あたま」で考え出した「教え」をもとにした宗教なら、その誰かが「開祖」ということになりますが、キリスト教はそういうものではありません。旧約聖書に伝えられているように、神さまと人とは長い交わりの歴史を持ちます。それは、人間は本来とてもステキなものとして神さまに創造されたのに、神さまに背いたために、そのせっかくのステキさを失ってしまい、惨めな姿でこの世をさまよう歴史、そしてその人間に対する、神さまの愛による怒りや悲しみや赦しの歴史です。

そんな歴史の中で、人間は、神さまの愛に応えようと、神さまの怒りをなだめようと、神さまに赦していただこうと、神さまに礼拝する(祈る)ことを始めました。キリスト教はその時にすでに始まっていたと言ってもいいのです。

ただ、神さまと人間との関係は、イイスス・ハリストス(イエス・キリストの日本正教会での呼び方。日本のキリスト教の教派の採用する呼び方の中で、いちばんもともとのギリシャ語の発音に近いんですよ)が、今日のイスラエルのベツレヘムという町に生まれた時に大きく変わりました。イイススは成長し、三十歳の頃、人々に教えを宣べはじめました。不思議な力でたくさんの病人たちを癒しました。そのころユダヤの地を支配していたローマ帝国の圧制に苦しんでいた民衆は、イイススを「救い主」として歓迎しました。やがてユダヤの宗教的指導者たちは、ますます人気が高くなるイイススによって、自分たちの権威が失われてしまうことを恐れ、ついに、イイススを捕らえ、十字架にかけて殺してしまいました。
埋葬されて三日目に、女のお弟子さんたちがお墓に行くと、そこは空っぽで、天使が「主はよみがえった」と告げました。やがて、お弟子たちの所に復活したイイススが現れました。その時、お弟子さんたちは、イイススが「神の子」、真の「救い主」(ハリストス)であることを、心の底から確信したのです。

イイススは四十日間お弟子さんたちとともに生活を共にし、ついに天使たちにともなわれて、父なる神のもとに昇りました(「昇天」)。しかし、イイススは、お弟子さんたちにあらかじめ約束していたとおり、聖神(「聖霊」の日本正教会訳)を天の父なる神のもとから、地上にお遣わしになりました。この聖神を受けて、お弟子さんたちの内に、どんな困難にも負けない力と知恵と愛があふれました。そしてお弟子さんたちは、「神の子」が、私たち人間のために十字架で死に、なんと三日目に復活したこと、これを信じる者に、罪の赦しと永遠の生命を、言い換えれば「人間のよみがえり」を約束してくださったという「福音」(喜びの知らせ)を、世界中に伝える「使徒」となりました。

その時、今日まで続く「教会」が、ハッキリ目に見えるかたちで存在しはじめたと言っていいでしょう。「教会」はこの使徒の働きを受けついでいます。
この出来事が起きたのは紀元三十年頃といわれています。

キリスト教とは、使徒たちが世界各地に設立した教会が、今日まで宣べ伝え続けている「福音」であり、この福音を信じ「洗礼」を受け教会のメンバーとなった信徒たちが集う「聖体礼儀」(カトリックでは「ミサ」、プロテスタントでは「聖餐式」と呼びます)という礼拝を中心とした祈りの生活であり、そこで教えられる聖書にもとづく教えであり、その教えによって導かれる「愛」を最も大切なものとする生活のあり方です。

このような教会のあり方をしっかりと守り、多くの人々を教会に集め、いつ起きるか神さまだけしか知らない「ハリストスの再臨」*に備えさせること、これがキリスト教(教会)の目的です。

*ハリストスの再臨 ハリストスが再びこの世に来られ、全ての死者を復活させ、その時生きている人々とともに、生前の生き方に従って一人一人を永遠の生命か、永遠の地獄かに裁きます(最後の審判)。

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どうやって霊的弱点から逃れるか

Why do I always eat too much?

Q&A

Saint Paisios of Mount Athos, Greece (+1994)

――聖山アトスのパイシイとの対話――


――長老様、どうして私はいつも食べ過ぎてしまうのでしょう。

――なぜならそこがお前さんの弱点だからじゃよ。悪魔は守りの弱いところをまず攻めるもので、守りの固い場所には近づかないものだからの。悪魔はまたこうも言う。「もしここを攻め落とすことが出来たら、ほかのところも少しずつ奪い取っていこう」とな。だから弱点はしっかり固める必要があるのじゃよ。

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どうやって霊的弱点から逃れるか

私は戦うのがつらいのです

I am afraid to fight

Q&A

Saint Paisios of Mount Athos, Greece (+1994)

――聖山アトスのパイシイとの対話――

――長老様、私は戦うのがつらいのです。

――指からとげを抜き取るのは痛いものじゃが、自分から欠点を引っ張り出すのはそれよりもっと痛いものじゃよ。覚えておくがいいよ。人が誘惑を切り捨てようと努力している時、誘惑は人の前につまずきの石を置くものだから、人はものすごく苦しむ。それこそ悪魔憑きみたいに苦しむが、それは悪魔と戦っているからなのじゃ。けれどもやがて悪魔憑きは自由になるのじゃ。

自分を浄めるというのは、ボタンを押すように簡単にはいかんものでな。自動的に、何の苦労もなしに得られるものではない。木を切り倒すのと同じで、霊的欠点もすぐには切り捨てることが出来ん。のこぎりで幹を切るのに長いことかかるではないかの。しかもそれでおしまいではないのじゃよ。丸太から家具を作るのに、どれだけ苦労しなければならんことか!まず丸太を切って、板にして、職人が時間をかけて磨いて、それから家具にしていく。

――もし、そのような努力が必要だと私が思わなかったら?

――その時は、切り株のままでいるじゃろう。そしてしまいには火に投げ込まれるじゃろうな。

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天国や地獄はあるんですか

Is there Heaven or hell?


キリスト教でいう天国を、なにか別世界にある特別な場所と考えてはなりません。天国は「神の国」を言い換えたもので、神さまと人間が直接ふれあい、人々が神さまの愛のもとに集う生き方そのものです。その神の国は、教会という形ですでに始まり、たえず成長していますが、完成するのはイイスス・ハリストスの再臨の時です。その時、世界は全く新しい輝きに満ちたものとして造り替えられ、最後の審判で祝福された人たちは「永遠の生命」のあふれる「神の国」へ入れられます。

地獄も同様です。神さまに背き、人を憎んだり、争ったり、ひとりぼっちの世界に閉じこもったりしている生き方そのものが地獄です。生きている間に、そういう自分勝手な、愛を忘れた生活をしてきた人たちは、最後の審判の時、今度は目に見えるかたちで、神さまが示される「永遠の地獄」に入らなければならなくなります。

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なぜみんな十字架を持っているのですか

Why does everyone have a Cross?


目に見えない神の働きを、目に見えるかたちや動作で象徴するものは、教会にはたくさんあります。十字架も神の子「ハリストス」の救いの象徴ですし、十字を胸に手で描くのも、ハリストスへの信仰の象徴です。他にも数え切れないほどの象徴が教会にはあります。

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お祈りの仕方を教えてください

一日何回祈りをささげるのですか

How to pray and how many times?


教会で日曜日に信徒が集まって行う「聖体礼儀」というお祈り(礼拝)が中心です。ここでは、神さまを讃え、感謝し、世界中の人々の平安を祈り、パンとぶどう酒をささげ、神さまのお力によって、パンとぶどう酒そのままでありながら「ハリストスの体と血」に変化した「聖体血」を、信徒みんなで分かち合って食べます。

家庭でのお祈りも、朝晩食事の前などに行われます。

修道院では、毎日、晩課、晩堂課、夜半課、早課、一時課、三時課、六時課、聖体礼儀、九時課が繰り返されます。

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どうやって霊的弱点から逃れるか

Does thinking of death help spiritual deeds?

Q&A

Saint Paisios of Mount Athos, Greece (+1994)


――聖山アトスのパイシイとの対話――

――死を思うことは霊的行いの助けになりますか。

――非常に助けになるとも。神に望みを託しながら死について考えると、この世の空しさがよく分かる。そして霊的な助けを得ることが出来るのじゃ。だから神の裁きに思いをはせなければならん。わしらが悔い改めなかった罪の責任をいずれ負わなければならないということを忘れてはいかんのじゃよ。「私は何をしているのか?どうして喜びを感じずに生きているのか?今死んだとしたら、私はどうなってしまうのか?私が死と契約を交わしたとでもいうのか?大人も子供も関係なく死んでいるというのに?神がもうすぐご自分のもとに私をお呼びになるとすれば、その時はもう罪を犯すことはないだろう」。

弱点を根絶やしにするには、死、最後の審判のことを考え、自分がどんなに努力しているかをハリストスにご覧いただかなくてはならん。だってハリストスがわしらを救うために大変苦しまれたのだからの。誘惑との戦いというものは、ハリストスの愛のもとに神の掟をまっとうするための甘美な受難と同じ事なのじゃよ。すべての欠点に打ち勝ってハリストスを侮辱するよりは、英雄的に死んだほうがましというものじゃ。

ソース:

日本正教会 Orthodox Church of Japan - 日本人 Japanese Orthodox Web 2



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